ゲルハーヘルの『冬の旅』 ― 2008/02/08 22:15
クリスティアン・ゲルハーヘルの『冬の旅』を聴いてきました。
冬の旅はミュラーの詩にシューベルトが曲を付けたドイツ・リートの傑作。ゲルハーヘルは美しく聴き取りやすい歌声でミュラーの詩をどちらかというと穏やかに淡々と歌い上げていきました。
歌手がむやみにデフォルメした表現を施すことをせず、ミュラーの詩とシューベルトの曲が表現している物をありがまま引き出そうという感じでしょうか。
失恋と疎外感から抱く絶望により、死をも覚悟して逃げ出すように旅立つ主人公ですが、最終24曲目に登場する辻音楽師は主人公そのもの、あるいは行く末を象徴しているように思います。死ぬことも立ち直ることもできずに、誰からも相手にされず年老いていく。。。
ドラマチック、あるいは望みを捨てずに明るく歌い上げるのも良いのかも知れませんが、言葉の多様性で様々な解釈の余地のある演奏が冬の旅には適しているんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。
実は、歌曲はあまり好きではないのですが、それは詩と音楽が密接に関わるほど原語で聴き理解できなければ曲そのものが理解できないからです。訳詞を読みながら聞いているだけでは、その曲の世界には入り込めない。
入場時に11ページもの歌詞の対訳冊子が配られたのですが、演奏中ページをめくる音が非常に多く気になったのが残念です。気をつければ音を立てずに済むのでマナーの問題とも言えますが、客席を真っ暗にするか、舞台に字幕を用意するかした方が良かったですね。確かに座席によっては字幕も見難かったりするのですが。演奏の質や雰囲気と観客の理解やサービスのどちらを優先するか難しいですが、歌詞カードを必要としない人ほどあの紙をめくる音は気になってしまうのです。
冬の旅はミュラーの詩にシューベルトが曲を付けたドイツ・リートの傑作。ゲルハーヘルは美しく聴き取りやすい歌声でミュラーの詩をどちらかというと穏やかに淡々と歌い上げていきました。
歌手がむやみにデフォルメした表現を施すことをせず、ミュラーの詩とシューベルトの曲が表現している物をありがまま引き出そうという感じでしょうか。
失恋と疎外感から抱く絶望により、死をも覚悟して逃げ出すように旅立つ主人公ですが、最終24曲目に登場する辻音楽師は主人公そのもの、あるいは行く末を象徴しているように思います。死ぬことも立ち直ることもできずに、誰からも相手にされず年老いていく。。。
ドラマチック、あるいは望みを捨てずに明るく歌い上げるのも良いのかも知れませんが、言葉の多様性で様々な解釈の余地のある演奏が冬の旅には適しているんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。
実は、歌曲はあまり好きではないのですが、それは詩と音楽が密接に関わるほど原語で聴き理解できなければ曲そのものが理解できないからです。訳詞を読みながら聞いているだけでは、その曲の世界には入り込めない。
入場時に11ページもの歌詞の対訳冊子が配られたのですが、演奏中ページをめくる音が非常に多く気になったのが残念です。気をつければ音を立てずに済むのでマナーの問題とも言えますが、客席を真っ暗にするか、舞台に字幕を用意するかした方が良かったですね。確かに座席によっては字幕も見難かったりするのですが。演奏の質や雰囲気と観客の理解やサービスのどちらを優先するか難しいですが、歌詞カードを必要としない人ほどあの紙をめくる音は気になってしまうのです。
NBSの『ヨハネ受難曲』 ― 2008/02/22 23:43
今日は、ネザーランド・バッハ・ソサエティ(NBS)のヨハネ受難曲を聴いてきました。マタイ受難曲に三年先駆けて、聖ニコライ協会で初演されたこの曲は、マタイよりシンプルな編成でテンポ良くて劇的な事で知られます。
NBSの演奏はソリストとは別に合唱を置かず、バッハの時代のようにソリストもリピエーノとともに合唱に参加するというもの。ビブラートをほとんど加えない澄んだ歌声は人数が少ないこともあり、合唱の人数が多いとありがちな音が濁る事とは無縁の清楚な歌声を聞くことが出来ました。
演奏は非常に満足でしたが、字幕に疑問がありました。
というのは、字幕が対訳ではなく要約であったこと。福音書の聖句も省かれ意訳され、ヨハネ受難曲をはじめて聴く人には物語の流れが解りやすくするという配慮があったのだでしょうが、意訳されるとメタファーなども隠されてしまいますし、音楽の流れに比べ詩の進行が間延びしてしまったように思います。字幕着き上演といえるのかどうか。
もう一つ残念だったのが、観客の中から起こる拍手が早すぎたこと。受難曲なのですから、最後の一音が鳴り終わったら即拍手なんて事はあり得ないはずです。せめて指揮者が手を下ろすまで待つべきでしょう。聖金曜日に教会で演奏された受難曲、いくらコンサート会場であったとしても、このような拍手は演奏者にも決して心地よいものではないはずです。
ちなみに、NBSのヨハネ受難曲はチャンネルクラシックからSACDでリリースされています。ソリストは違いますが、いわゆる現代風の大きな編成でしか聴いたことがなければ、それぞれの声や楽器の音の響き直接飛び込んでくる単なるピリオドアプローチとはまた違った、生きた音楽にはっとさせられる事でしょう。
ところで、余談ですがカーテンコールがソプラノのソリスト、マリア・ケオハナを先頭に出入りしたのですが、彼女が割と小さくて、歩き方が行進のようだったので、かわいらしくほほえましかったです。
NBSの演奏はソリストとは別に合唱を置かず、バッハの時代のようにソリストもリピエーノとともに合唱に参加するというもの。ビブラートをほとんど加えない澄んだ歌声は人数が少ないこともあり、合唱の人数が多いとありがちな音が濁る事とは無縁の清楚な歌声を聞くことが出来ました。
演奏は非常に満足でしたが、字幕に疑問がありました。
というのは、字幕が対訳ではなく要約であったこと。福音書の聖句も省かれ意訳され、ヨハネ受難曲をはじめて聴く人には物語の流れが解りやすくするという配慮があったのだでしょうが、意訳されるとメタファーなども隠されてしまいますし、音楽の流れに比べ詩の進行が間延びしてしまったように思います。字幕着き上演といえるのかどうか。
もう一つ残念だったのが、観客の中から起こる拍手が早すぎたこと。受難曲なのですから、最後の一音が鳴り終わったら即拍手なんて事はあり得ないはずです。せめて指揮者が手を下ろすまで待つべきでしょう。聖金曜日に教会で演奏された受難曲、いくらコンサート会場であったとしても、このような拍手は演奏者にも決して心地よいものではないはずです。
ちなみに、NBSのヨハネ受難曲はチャンネルクラシックからSACDでリリースされています。ソリストは違いますが、いわゆる現代風の大きな編成でしか聴いたことがなければ、それぞれの声や楽器の音の響き直接飛び込んでくる単なるピリオドアプローチとはまた違った、生きた音楽にはっとさせられる事でしょう。
ところで、余談ですがカーテンコールがソプラノのソリスト、マリア・ケオハナを先頭に出入りしたのですが、彼女が割と小さくて、歩き方が行進のようだったので、かわいらしくほほえましかったです。
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